活字好きの本のお話

図書館や大好きな本の話、読んだ本の感想など、駄文で綴ってまいります。

堪らず

前回、三島由紀夫の短編集と出会った事は書きました。

その後ネットで、三島氏に関する様々な事に触れ、

自分の「三島作品への傾慕」を再認識した。

 

読みやすい、慣れしたんだ、理解しやすい文章というのは、

読書をする上で、選択肢の一つになると思う。

読み進めていけることはモチベーションになるし、

何より、読了後の爽快感、満足感へとつながると思う。

しかし、そこに少し遠回しな表現や見慣れぬ単語、

主語と述語が分からなくなりそうな、一文の長さなどが加わると、

途端に読書に対する労力は増してゆく。

専門書籍やマニュアル書を読んでいて酷く疲れるのは、

そこに分からない単語や表現、不必要なほどのカタカナの羅列があったりするからだ。

海外文学が苦手という人が良く言うのが、

カタカナの名前が覚えられない、そこから臨場感も生まれにくい、だ。

やはり表現一つ、文字一つで、読書に対する意欲は多いに削がれる。

 

三島氏の文章は、決して簡単ではない。

初めて彼の作品に触れた時は、そりゃぁ難儀だった。

彼の作品の中でも大衆文学に分類されるものがある。

掲載される媒体によって、彼も作風を変えていたのだ。

だからそこから手を付ければよかったが、そこが初心者。

訳も分からず、かなりの苦労を伴った。

ただ… それでやめられなかった。

次も、そしてまた次も、三島作品を手にし続けたのだ。

 

簡単に言ってはいけないが、簡単に言えば、文章が美しい。

一つの物事を形容する言葉が次々と現れ、

それがしつこくなく表現されている。

耽美的というわけでないのに、美しく表現される技に魅了されるのだ。

今なら極々普通に『不倫』と表す人妻の情事を『美徳のよろめき』と表現する。

『春の雪』というタイトル、これだけでも儚さが見て取れる。

これだけで読書欲はチクチクと刺激される。

 

何が悲しいのか…

彼は既に亡くなっている、存在しない、という事。

前回も書いたが没後50年。

そう50年も前に、彼の執筆活動は終わってしまっているのだ。

作品が増えない、新作に触れられない、

そう分かった瞬間、本当に悔しい!という感情が湧いてきた。

彼が年を重ね、時代の変化とともに、

どんな作品を生んだだろう、と考えると残念で堪らなかった。

たられば、を言えばキリがないが、それでも言いたいのだ。

『もっと貴方の作品を読みたかった』と。

 

短編集、読んだことのない作品が収められている。

これを我慢できるわけがない。

他の文庫・新書をあっさり積読にまわし、

昨日から丁寧に1ページずつめくっている。

早く読みたい気持ち、ずっと読んでいたい気持ち…

あぁ、私はやっぱり三島作品が好きだ。