活字好きの本のお話

図書館や大好きな本の話、読んだ本の感想など、駄文で綴ってまいります。

表現する


今朝方、旦那と話していた事ですが…


日本の教育方針がゆとり教育から脱却すべく、
色んな所で改善(!)され、カリキュラムも組み直されます。
授業数も増える、教科書も分厚くなる、
授業内容も大幅に変わっていきます。


語学関連の仕事をしている旦那、
やはり気になるのは『国語』
詩歌の内容が増える事について、
彼なりの意見があったようで、それを私に振ってきました。


実は、それに似たような内容を、
今読んでいる『日本の文章』でも触れられていました。
どこの国の文化でも最初に生まれるのは歌(詩歌)、
そしてその後散文と言うものが育って行く。
つまり詩歌は文学などの基礎をなす、というわけです。
ある程度、型にはまった、ルールに則しながら表現する、
それを会得して初めて、自由に表現を操って、
型にはまらぬ文章体で、更なる自己表現をしていく…
大雑把にまとめるとこういうことを、この本の中では言ってます。


いい例があったんですけど、
人間、いきなり水には飛び込まない、まず泳ぎの基礎から習う。
ある程度泳げるようになって、初めて海や川などで泳いでよい事になる。
しかし、文章に関しては、いきなり『自由に書いてみましょう』と薦める。
そこに基礎もルールもないまま、それが良しとされている。
思うところを自由な表現を用いて…、いや、それが拙いわけではない。
しかし、他人が読んで”わかる文章””おもしろい文章”が、
自由なスタイルで生まれるかどうかは問題なわけです。


相手に理解を求める、面白いと感じさせる文章には、
それなりに分かり易さ、リズム感、緩急といったものがあります。
そこに惹き付けられて、人々は読み、聞き、理解するものなんです。
つまり、天性だけでなく、
ある程度の組み立てや言葉の使い方など、
繰り返し練習することで、文章能力を培う事が出来るということ…。


よくよく考えると、文章の書き方なんて、
きっちりと教えて貰った記憶はありません。
芸術は模倣の繰り返しで身につけるものが多いですが、
その手本となるものが拙ければ、自ずと拙いものが継承される。
日本の文章は、その拙い継承の繰り返しで、
かなりの危機に瀕している… ということらしいのです。


日本人がどうやって日本語たるものを成長させてきたのか?
どうやって日本語を学んできたか?
そういうのを改めて考えていくと、
私達って本当に正しく日本を学んでいるのか、
正直言って自信はありません。
こうやって書いている自分の日本語にも自信がなくなります。
ただ、完璧ではない事を自覚する事、
難しい言葉さえ並べればいい文章だ、という誤解を捨てる事、
どういう文章に惹き付けられるのか、それを探す事、
そういう日頃のちょっとした努力は大事だと思いました。


さて、話題が大きくそれてしまいましたが…


これから我が子達も、変わり行く日本教育の中で、
国語という日本語を勉強して行きます。
決められた文字数の中で、季節を盛り込み、
感じる事を伝える事。
短い歌の中に込められた意味を読み取る事。
定型詩のルールを覚え、自分でも歌ってみる事。
それをしっかり身につけ、そして応用していけるかどうか…


こんな事いったら、日本国民総生徒化してしまいますね。


でも、自分たちが使う日本語、
もっと綺麗に正しく使うには、
一人ひとりの心掛けも必要だと思います。
言語というのは進化していくものです、
しかし同時に、使い方次第では退化もします。
同じ変化するものならば良い方向が良いにきまってます。
美しい表現が失われぬよう、
大事な言葉が死語にならぬよう、
私達もしっかりと正しく、日本語を使う努力、した方がいいようです。


(2010年4月4日記載)