活字好きの本のお話

図書館や大好きな本の話、読んだ本の感想など、駄文で綴ってまいります。

読めてなかった

この年末年始、

 

「読書してやる!」

 

と心の中では立派に意気込んでいたのに、

結局、1ページも読めてませんでした。

そもそも、掃除や御節の準備など、やる事が多いので、

年が明けないとゆっくりできない。

なのに、今年はひどく疲れが出て、ず~っと寝正月。

動ける、となると炊事に忙しくなる、そしてまた疲れる…。

 

仕事も始まって、”通常営業”になると、

何故か体も不思議とよく動き、

忙しい中でも読書する時間を見つけられる。

おかしいですよね。

 

ということで、未だこちらとお付き合い中。

 

おせち

この時期だからこそ、読まねばならぬ本、それが、

 

 

 

 

この2冊です。

特に下の『いまどきのおせち』は20年お世話になっているものです。

子供を産んで、年中行事を気にするようになって、

色んなイベントで食卓にのぼる料理にも挑戦するようになりました。

おせち料理なんて作るもんじゃない、作ったってホンの数品、と思っていた私も、

『日本の文化を伝承せねば』なんて義務感というか正義感みたいなものに駆られ、

毎年1品ずつ増やしながら今までやってきました。

その内、家族の好みが分かってきたり、

おせち以外のお祝い料理を作ってみたり、”我が家のおせち”を作り上げてきました。

 

おせち一品一品に込められた意味、それを作る思い、

そんな日本人ならではの食文化を再確認しつつ、

今年もおせち料理、作っています。

今月も読む仕事

毎月のお仕事、月刊誌のゲラチェック。

今回は世界のいろいろな「椅子」に関する話題。

作業に使う腰掛けから、権威や富の象徴とされる肘掛け椅子など、

世界中にはいろんな椅子があります。

彫刻が施されていたり、貝が飾りとしてちりばめられていたり、

ビーズで装飾されたものも。

たかが椅子、されど椅子です。

 

私が勤めている施設には、いろんな椅子が配されていますが、

それはそれは座り心地は、悪いかも(苦笑)

現代の人間工学に基づいた椅子に比べたら、

固いし、高さもまちまち。

でも、何かしら趣があって、

今時ならインテリアとしていいのかもしれません。

 

しかしそれら一つ一つに、いろんな地域の、

いろんな民族の文化・習慣が反映されているはずで、

それを知ると、偉く納得させられます。

やはり、たかが椅子、されど椅子、なわけです。

 

この月刊誌、ご紹介したいのですが、

私の職場がいっぺんにバレてしまうので、パス!

珈琲

突然ですが、我が家、夫婦揃って珈琲好きでして、

付き合い始めた頃など、なんかっちゅうたら喫茶店へ行って寛いでいました。

昔は、個人で経営してる喫茶店も多かったのですが、

今は大規模チェーン店に追いやられてしまっています。

子供が出来たことも相まって、

家でコーヒーを飲むことが多くなり、

豆のチョイスも固定してきて、あまり冒険もしなくなってきました。

 

これから夫婦共々年をとるばかり。

なにか一つでも共通して造詣を深めるのもいいかな、

なら何にしよう、と考えて『珈琲』にしてみようかと。

 

珈琲歴は長いものの、珈琲に関して明るい、とは言い難く、

初心者という位置づけで、いろんな知識を増やしていこうと思い、以下2点をば。

 

 

 

昨日、ネット注文したものが到着しました。

机の上にポンと置いておいたら、帰宅した旦那が目ざとく発見。

手に取って、私に見せつつ、

「これ、いいね。うんうん」

と言ってました。旦那も興味津々の様子。

気負うことなく、じっくり、まさに珈琲を味わう如く、知識も深めていきたいです。

 

ちょっと読んだけど

現在、ぼちぼちとこちらを読んでいます。

 

 

久々の三島作品に堪えられず、

その他の新書・文庫を積読コーナーへ追いやって、

短い電車内の読書時間をあてがって、読み進めています。

 

三島氏の若い頃の短編が、年代順に掲載されているようで、

最初の「酸模」は13歳の頃の作品。

13歳でこの文章を書くのか…と思いつつ、

何か単に日頃見掛けない漢字が多いだけのような感じもしつつ。

設定としてはかなりシンプルなのですが、

何を盛り込みたいのか、何を表現したいのかが少し読み取りにくい。

登場人物の動きがブツ切れで、お話に”いい流れ”がない感じがしました。

結果的に、やはり13歳なのかな…と。

 

でも今の時代の13歳の子が、こういう空想に耽って、

文字に起こすだろうか?って思うと、やはり違う、才能を感じます。

多感な時期を激動の時代とともに過ごした三島少年が、

これからどんな影響を受けつつ、どんな考えをもって書き綴っていくのか、

次の作品が楽しみです。

 

堪らず

前回、三島由紀夫の短編集と出会った事は書きました。

その後ネットで、三島氏に関する様々な事に触れ、

自分の「三島作品への傾慕」を再認識した。

 

読みやすい、慣れしたんだ、理解しやすい文章というのは、

読書をする上で、選択肢の一つになると思う。

読み進めていけることはモチベーションになるし、

何より、読了後の爽快感、満足感へとつながると思う。

しかし、そこに少し遠回しな表現や見慣れぬ単語、

主語と述語が分からなくなりそうな、一文の長さなどが加わると、

途端に読書に対する労力は増してゆく。

専門書籍やマニュアル書を読んでいて酷く疲れるのは、

そこに分からない単語や表現、不必要なほどのカタカナの羅列があったりするからだ。

海外文学が苦手という人が良く言うのが、

カタカナの名前が覚えられない、そこから臨場感も生まれにくい、だ。

やはり表現一つ、文字一つで、読書に対する意欲は多いに削がれる。

 

三島氏の文章は、決して簡単ではない。

初めて彼の作品に触れた時は、そりゃぁ難儀だった。

彼の作品の中でも大衆文学に分類されるものがある。

掲載される媒体によって、彼も作風を変えていたのだ。

だからそこから手を付ければよかったが、そこが初心者。

訳も分からず、かなりの苦労を伴った。

ただ… それでやめられなかった。

次も、そしてまた次も、三島作品を手にし続けたのだ。

 

簡単に言ってはいけないが、簡単に言えば、文章が美しい。

一つの物事を形容する言葉が次々と現れ、

それがしつこくなく表現されている。

耽美的というわけでないのに、美しく表現される技に魅了されるのだ。

今なら極々普通に『不倫』と表す人妻の情事を『美徳のよろめき』と表現する。

『春の雪』というタイトル、これだけでも儚さが見て取れる。

これだけで読書欲はチクチクと刺激される。

 

何が悲しいのか…

彼は既に亡くなっている、存在しない、という事。

前回も書いたが没後50年。

そう50年も前に、彼の執筆活動は終わってしまっているのだ。

作品が増えない、新作に触れられない、

そう分かった瞬間、本当に悔しい!という感情が湧いてきた。

彼が年を重ね、時代の変化とともに、

どんな作品を生んだだろう、と考えると残念で堪らなかった。

たられば、を言えばキリがないが、それでも言いたいのだ。

『もっと貴方の作品を読みたかった』と。

 

短編集、読んだことのない作品が収められている。

これを我慢できるわけがない。

他の文庫・新書をあっさり積読にまわし、

昨日から丁寧に1ページずつめくっている。

早く読みたい気持ち、ずっと読んでいたい気持ち…

あぁ、私はやっぱり三島作品が好きだ。

 

 

読了いたしました

ふふ~ん、読了しましたよ、この1冊。

 

 

最初はどうなることかと思いましたが、

中盤以降、なかなか面白いことに。

スラングの多さが気になっていたんですが、

巻末の訳者である柴田元幸氏のあとがきによれば、

スラングが多いような印象だが、実は原文ではそれほどではない、とのこと。

元々、パルプという粗悪な紙質で出版される大衆小説なので、

スラングが出てきて当然。

それから比べたら、と考えるべきだったかもしれません。

 

兎に角奇々怪々。

文章もそうですけど、登場人物も、各々の行動も奇々怪々。

言葉の表現自体も特徴的で、何となく感じはしていたものの確信がなく、

ネットで調べてみたら、やはり詩人だった。それでひどく納得しました。

 

読み進めながら訳が分からず、でも止められず読了した、

そんな経験があったかどうか、記憶をたどってみたら、思い出しましたよ。

学生自分に読んだ『イリアス

 

 

これです、この感じ。

時代設定も状況も全く違います。

でも、詩的な表現、いろんなところをさまよい歩き、

幻想とも現実ともわからぬ風景を想像させる。

私には抒情詩のように感じられました。

 

主人公は英雄ではありません、そんな振りはしてるけれど。

でも、何かに対して下手なりに対処しようとします。

でも相手は幻のような存在で、しかも最後に分かりますが死神もいたりして。

そんな周囲のきまぐれに、主人公の人生が翻弄されるとか、

神の気まぐれなんかで翻弄されるギリシャの人々みたいで、

それはそれで面白い設定じゃないかと。

 

でも、これ1冊だけではこの作者の面白さは分からないのかもしれない。

他の作品も読んでみたくなりました。